心はいつも雨模様

記憶より記録

驟雨日記 ~ 夏目漱石の本を受け取る ~

一日の仕事を終え、アパートに帰ってすぐにシャワーを浴び、そのまま椅子に座りホッと一息つく。「今日も何もなかったなあ」と、変化のない日々に文句を言いながらも、しばらくすると、仕事の疲れが出てきたのか、机の上でウトウトとし始める。

そんな矢先のことだった。半ば夢心地の気分でそのウトウト眠りを味わってた時に、突然、空間を引き裂くようなインターホンの音が部屋中に鳴り響いた。私は不意打ちを食らったかのごとく驚き、まどろんだ夢の世界から引きずり出され、つまらない現実に呼び戻される。いつもそうだ。いつもいつも、誰かが私の眠りを妨げる。

スズメの涙ほどの憎しみを抱えながら「よっこらせ」と椅子から立ちあがり、玄関へと向かう。するとまた「ピンポーン」と続けざまにインターホンがなった。

「ずいぶんとせっかちな訪問客だな」とウミガメの涙ほどの憎しみを抱えながら玄関の扉を開けると、この世の終わりを迎えたかのように、険しい形相をした女性配達員が私の目の前にヌッと現れた。若干ホラーに近かった。
「これに、、、サインを」と片腕をプルプルと震わせながら私宛の荷物を持ち、そして、もう片方の腕で領収書を差し出してくる。「えーと、どこにサインすればいいんですか」と暢気に質問していると、「ここ!!!」と、間髪入れずに、またしても険しい形相で私を睨んでくる。もっと落ち着けばいいのに。

受領のサインを書いて女性配達員に差し出すと、その配達員は獲物を狩るかのごとくシャッ!と領収書を受け取り、そして余計なお荷物を切り捨てるように、私に荷物を託した。予想もしなかった重さに思わず「うわ重た!」と声が出た。その間抜けな姿を見て女性配達員はフッと鼻で笑った。そして、とんずらした。

箱の中身はおおかた予想はついていたけど、漱石全集がこんなにも重量感のある代物だとは思わなかった。箱を開け中身を確認すると、分厚い古文書のような本がわんさか出てきた

f:id:aimaru105:20170615212004j:plain

「なんでこんな写真を撮ってんだ。早く読めよ」と周りからはブーブー文句を言われそう。
ただ、今は、古い本の匂いや、多くの人の手に渡ってきた古本自身の過去を、しっかりと味わっていたい。

図書館で味わうようなことを、まさか自宅で味わうことになろうとは、本当に夢にも思わなかった。

私は一体どこに進んでいくのだろうか。

夏目漱石の世界を旅してみようと思う

f:id:aimaru105:20170611221648j:plain
夏目漱石の世界を旅してみよう」

そのような考えに至った理由は三つある。どれも中村文則さんの文学講座に参加し、そこで得た知識と感慨深いお話を参考にして、自分のやるべきことを見定めた上での考えだ。

読書の幅を広げる努力をし、見識を高める。

これまで、ある程度の現代の人気作家の小説を読んできた。もちろん、読んでない本はこの世にごまんと存在し、まだ私の知らない心を揺さぶるような本が書店や図書館などにたくさん眠っている。それらを探し回って読みたい本をもっともっと積み重ねていくのもきっと楽しいことだろうし、他人の考えを取り入れるだけで感性が豊かになれる。

でも、私は分かってしまった。このまま今の読書体制を続けていても、なんの成長もなしに、ただ楽しいだけで終わってしまうということを。読書は楽しむためにあるのは間違いない。それはとても大切なことで、読書をする上では絶対に忘れてはならないことだ。しかしそれだけだと、自分自身が大きく成長できない。見識を今以上に高めていく為には、現代の大衆受けする本では限界がある。

夏目漱石の小説は、日本文学の礎を担い、多くの人に影響を与え、たくさんの有名な作家を生み出してきた。もちろん現在も、海を越えて多くの人に読み継がれている。少々難しい文体だけど、私もチャレンジして、夏目漱石がどのようなことを考えていたのかを想像しながら読んでみたい。

夏目漱石の考えを取り入れながら、自分を見つめなおす。

今年で25年目の節目を迎え、私もそろそろアラサーの仲間入りを果たす。しかし、ここまで生きてきて、自分の事をしっかりと理解しているかと聞かれると、正直自信がない。ただ分かっているつもりなだけで、本当のところは何にも分かっていないんじゃないかと思う。

子供の頃は空ばかり眺めて、とにかくどこか遠くに行きたいことばかりを考えた。漠然とした不安に怯え、弱い自分を悟られないように、できるだけ他人と距離をとり、「変な奴」とレッテルを貼られないよう、慎重に生きてきた中途半端なあの頃の自分と、今の自分は、さほど変わっていない。成長した感じがまるでない。このブログだって、です・ます調、だ・である調が統一されてないし、自分とはかけ離れたキャラで物事を語ったりしているところが、もうすでに痛々しいし、迷走しているのが窺える。

夏目漱石の考えを念頭に置き、自分を見つめなおして、本当の自分、新しい自分を見つけていきたい。

自分の考えを持ち、それを個性にする。

これが一番大切なことで、読書自体を自分の力にしていく、いわば個性にしていきたいと考えている。そのためには、本を読んで自分がどのような考えを持ったのかをしっかりと書き記していくことが重要となってくる。

物語を読み進めて行くうちに、人それぞれ違った感じ方や考え方が生まれてくるのは、中村さんの文学講座で学んだ。だから、たとえ稚拙な感想であっても、それは間違えではないと胸を張って言えることなので、恐れずに書いていこうと思う。

夏目漱石の小説を読破することで、考える力が身に付くと同時に、見識をうんと高めることができると、私は信じている。

まとめ

そんなわけで、漱石全集を買って読み進めていく。一度「吾輩は猫である」が難しすぎて挫折した経験があるだけに、多少抵抗はあるけど、自身の成長の為に何とか頑張りたい。しかし急いで読んでも内容が頭に入ってこなければ意味がないので、ゆっくりと自分のペースで読んでいくことにする。仕事や、他の本も読まなければいけないこともあるので、全て読み終えるまで、きっと年単位にかかるだろう。でもそれは、細々ながらも、何年もこのブログを続けていくことを意味している。

夏目漱石の世界を旅した記録をブログに書いて、それがいつか自分の成長の証として残っていたらいいなと、微かながら期待している。

いつか誰かがこの記録を読んで、「あははは、こいつ変なこと書いてる」と、笑ってくれる日がくるのだろうか。

そんな日が来たら、きっと、今よりも、成長しているんだろうな。

映画『花戦さ』を観て

30回以上映画館で映画を観て

社会人になってから、映画館に足を運んだ回数がついに30を超えた。映画通にはまだまだほど遠い回数だけど、最近は見たい映画を上映が開始される前の予告で決めるようになったから、以前よりも映画に対する期待や興味、そして関心が増しているように思う。

観た映画の感想をすぐに書いていきたいけど、いかんせん時間がないので、なかなかこのブログに書けずにいる。そのことが非常に悔やまれるのだけど、「何がなんでも感想を書いていくんだ」という無理な意気込みをするのも逆に苦痛になったりすることもあるので、細々とブログを続けていくために、これからもマイペースに何らかの作品の感想を書いていきたい。

『花戦さ』を観て

f:id:aimaru105:20170610142236j:plain

30回以上映画館で映画を鑑賞してきて、その中からなぜ『花戦さ』を書くに至ったのかというと、今年観た映画の中で、一番良い作品だと思ったからだ。映画の予告では「けったいな男が~、信長が褒め~、千利休が慕い~、秀吉をギャフンと言わせた~」と、面白おかしいフレーズが走馬燈のようにスクリーンを流れていたので、「『花戦さ』はきっとコミカルな映画なんだろうな」と自分の中では思っていた。私自身こういった時代背景の映画はまったく観てこなかったので、気難しくもあり、でも歴史の勉強にもなる、悪く言えば、おじさんが観るような映画を観ることになるんだろうなと、若干ではあるが覚悟していた。

しかし、今回の『花戦さ』は予告とは裏腹に、コミカルさもありつつ人間性や芸術性が多く描かれた素晴らしい作品だった。池坊専好が生ける花は面白味があって「生け花」についてまったく知らない私でも、「花」が醸し出す可憐な芸術を味わうことができて、観ているだけで心が豊かになれた。

「芸術に決まったものはない」そのような考えは昔からあり、いつの時代も型破りな考えは時として天才と謳われるが、その一方で「あいつは変わった奴なんだな」と周りからは一目置かれ、遠い人として認識される。その周りからの圧力が人を苦しめたりもする。映画での池坊専好は変わった人物ではあったけど、周りの圧力に屈することなく、自分の好きなやり方で生け花を極めようとする姿は勇ましくもあり、そして、変わった視点で人々を魅了していく姿は、グローバル化を謳いながらも没個性化に突き進んでいく日本に、一つの警鐘をならしていると私は感じ取った。

千利休はどうすれば救われたのかをずっと考えていた。あのまま秀吉に土下座をして、謝っていれば、命だけは助かったのかもしれない。でも、そのような行動をとっていたら、きっと現在まで「千利休」が教科書に載るまで名前は轟いていなかったと思う。命を投げうってでも意志を貫き通して、わび茶のあり方を守ろうとするその姿が、多くの弟子たちの心を揺るがし、現在も「茶道」が大切な伝統として受け継がれているのだろう。

秀吉の横暴かつ傲慢な態度は許されるべきものではないのは明白で、「猿」と口にしただけで幼い子供の首をはねる処罰のやり方は、まるで小学生の浅はかな考え事のようだと思った。よくそんなんで天下統一を果たせたものだと考えたりしたけど、世を治める偉い人間が必ずしも知的である訳でないというのは、現代の、上に立つ人たちの姿を見ていると頷けるのはよく分かる。どの時代も、上司の人間性による周りへの負の影響は、多くの人の悩みの種だったのかもしれない。

おわりに

 大学受験でちょっとばかり歴史を学んできたけど、過去の出来事を頭に詰め込んだだけでは、受験以外では何の役にも立たない。当時の人々の気持ちを考えていくことも立派な勉強になるのだと最近よく思う。過去の過ちを繰り返さないのが歴史の一番の存在意義なら、なおさら必要だと考えるけど、どうなのだろう。私だけが感じていることなのだろうか。

人の気持ちを考えることは、とても大切なこと。池坊専好は秀吉にそのことを分かって欲しかったし、希薄になりつつある現在の人間関係を良好に保つには、それは必要不可欠なことだと私は思う。