心はいつも雨模様

記憶より記録

モダンタイムスから学んだこと

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伊坂幸太郎さんの『モダンタイムス』を読み終えた。これで伊坂さんの本はほぼ読み尽したことになる。私は学生の頃から好きな作家さんの本をできるだけ読まないように努めてきた。その理由は、全部読んでしまうと、今後の人生の楽しみがなくなってしまうからだ。大好きなドラマが最終回を迎え、最後のエンディングを聴いている時みたいに、先がないことを考えると、ひどい虚無感に襲われる…でも、他に好きな作家さんはたくさんいるから、そっちにシフトすればいいだけの話なんだけどね。伊坂さんは今後の新作に期待しよう。あるいは、まだ読み終えていない本が、もしかするとあるかもしれないので、探してみよう。

どのようなストーリーか

『モダンタイムス』は『魔王』という小説の約50年後の世界を描いている。だから魔王に出てくる登場人物が重要なキーパーソンとして物語に何度も触れられる。しかし魔王を読まなくても、モダンタイムスはモダンタイムスで楽しめるので、興味があれば迷わず手に取って読んでみることをお勧めする。

『モダンタイムス』は、『ゴールデンスランバー』と関連性が深く、どちらも国家という巨大な社会が敵となって物語が進んでいく。抗うこと自体が無駄な抵抗となる中で、そのまま社会に服従するか、それとも、歯車から抜け出して小さな目的の為に生きていくか。どちらも、生き抜くために最悪で最善の選択が迫られる、緊迫感のある作品となっている。

『モダンタイムス』のあらすじ

SEとして平凡に過ごしていた渡辺拓海が、あるシステムの仕様変更の仕事を請け負ったことがきっかけで、身の回りの人たちが次々と不幸に襲われていく。上司の自殺、先輩社員の疾走、同僚への濡れ衣、知人宅への放火。不幸に見舞われた人たちは、皆、”播磨崎中学校 ” ”安藤商会”というキーワードを検索していた。それぞれの言葉が意味しているものは一体何なのか。物語の中で語られる凄惨な大量殺人事件、「播磨崎中学校事件」の真実とは…。「勇気はあるか?」ストーリーの途中で、何度もその言葉が投げかけられる。

物語を全て読み終えた時、あなたは、この世界の仕組みを、神妙な面持ちで、理解しているのかもしれない。

モダンタイムスから学んだこと

 全てはシステムの一部に過ぎない。それは人間の生活にも、社会全体にも当てはまることで、私たちはある程度決まったルールの下に、踊らされながら生きている。それは、私たち一般人だけの話ではない。どんなに偉い人間にも同じことが言え、時代がその人を必要としているから選ばれただけにすぎない。もし、必要でなくなったら、あっけなく、世界の隅っこに弾き出される運命となる。ヒトラームッソリーニもそうだった。私たち人間が自己の利益を優先するのと同じで、国家自身が、なるべく生き延びる方法を優先し、人間を歯車にし、使い捨てにする。国家は、理性を持った生き物だ。

そのように、延々と繰り返されるシステムを考えると、絶望的な感覚に襲われる。なぜ私たちは生きているのか、と。しかし、その答えを探すにも、私たちは必ず決まった方法をとる。それは、検索だ。人間はすぐに検索をして、答えを求めようとする。しかも、それが、絶対に正しいものだと信じて…繰り返されてきたシステムの中で導き出された方法を、検索によって得、そして、それを私たちは参考にし、実行して、結局は何も変わらない状況に悲観し、また悩む。

検索が悪いことだとは思わない。私も、日常生活や仕事の場面で、分からないことがあれば、当り前のように検索する。知りたい情報をすぐに見つけられることもあるから、問題解決の糸口を見つける最善の方法だと言えるだろう。インターネットが、私たちの生活に利便性もたらしているのは確かだ。

でも、この小説で語られているように、利便性ばかりを求めてしまうと、人間が腐っていく。考えることを止め、薄っぺらな人間が増えていくばかりになる。そして、行きつく先は、誰が何をしているのかも分からない、曖昧な状態に陥ってしまう。便利さが逆にマイナスの要因を発生させるのだ。これは伊坂さんが元SEだからこそ、緻密に物語に描くことができたのだろう。IT企業に勤めている私からすると、読んでいて、共感の嵐だった。効率的なシステム処理が、「なぜこのような処理を行っているのか」という問いを省いてしまい、重要なことはいつまでも知ることができない原因にもなる。

モダンタイムスのように、便利さによって隠された悪しきシステム処理が、世界中にまんえいする日が、やってくるのだろうか。そんな日がくれば、誰かが傷ついても、責任を負う人間はいなくなる。誰もが知らんぷり状態、見て見ぬふり状態となるだろう。そして、意図的に誰かを不幸に陥れたとしても、「そんなものなんだよ」と、ルールの一つとして、受け止められることになる。

便利さが無機質な感情を持った人間を作り出すことに繋がるのなら、私は、便利さなんて捨てた方がいいと思う。

本当の幸せと何なのだろうか。

社会全体のシステムに身を捧げ、ありふれた人生を送ることが、本当の幸せだといえるのか。それとも、自分の目的のために、システムから抜け出し、不安を抱きつつも、やりたいことをやっていく人生が、本当の幸せに繋がっていくのだろうか。

私は、『モダンタイムス』から、何を学んだのか。

印象に残ったセリフがある。

人間は大きな目的の為に生きているんじゃない。小さな目的のために生きているんだ
人生を楽しむには、勇気と、想像力と…ちょっぴりお金があればいいのよ

この小説で伝えたいことは、このセリフにすべて込められているんじゃないかと思う。
伊坂さんは、小説で世界が変えられると思っていたけど、作家になり、その考えは、幼稚に過ぎる考えだったと気づいた。今は、誰か一人にでも、心に染み込むものがあればいいという考えを持って、作家生活を送っている。

私たちが社会のシステムの一部にならない、あるいは飲み込まれない為には、自分の考えをしっかりと持って、目の前にある小さな目的を、一生懸命にこなしていくよう心がけていくこと、そのようなことを、この小説は教えてくれた。

 まとめ

 モダンタイムスは長編小説だったので、多少ではあるが読み終わるまで時間がかかった。でも、長編小説によく見られる、ダラダラとした展開はなく、淡々と物事が進んでいくので、読んでい退屈さは感じなかった。ユーモア溢れたセリフの言い回しも多く散りばめられているので、退屈どころか、友人と楽しく会話をしているようで、充実さに満たされた。

小説から学ぶことは多い。それこそ、ネット検索では得られない、価値のある言葉や描写が、私たちの記憶に深く刻まれる。

 感性の豊かな人間は、きっと、ネット検索で得た情報で、物事の良し悪しを判断しない。

驟雨日記 ~ くるくる回る地球儀を眺めて~

頬杖をつきながら、地球をぼうっと眺めるのが最近のマイブーム。

”地球儀”と聞くと、手でくるくると回転させて、世界全体を神様のごとく眺めたり、特定の国や地域を探して楽しんだりするのをイメージする人がきっと多いはずだ。

でもね、最近の地球儀は進化している。5月の東京旅行で、そのことをようやく知った。私の想像を遥かに超え、卓上に小さな宇宙を作り出す勢いで、地球儀のリアル化が進んでいるということを。

付属のペンを球体に押し当てると、国名を音声で教えてくれる実用的なものであったり、あるいは、磁石の力で実際に球体を浮かせて、まるで本物の地球さながらに宇宙に浮かぶ地球を表現しているものであったりと、ユーモアに富んだ地球儀が、当たり前のようにお店の商品棚に並べられている。

私は旅先でこんな地球儀を発見した。

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これは太陽光発電で半永久的に回り続ける地球儀だ。この地球儀を見かけた瞬間、私の購買意欲という名のハートを鋭く撃ち抜いた。

僅かな光でもくるくると回転し続ける。

ゆっくりと、ゆっくりと。マイペースに。

色は本物の地球っぽくはないけど、それでもいろんな国の形を目で追うことができるので、見ていて楽しい。

仕事から帰ってくるなり、くるくると回る地球儀を眺めてばかりだ。

人は、死ぬとお星様になるって聞くけど、死んだ人はこうして外から地球を眺めていたりするのだろうか。

それも案外、楽しいのかもしれない。

中村文則さんの文学講座に参加して。

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作家、中村文則さんの「人生に、文学を」オープン講座に参加してきた。今後の人生のために、書き残しておく。感想を書くのは昔から苦手だけど、大切だ!と思ったことを文章にして書き残すことは大事だと思うから、頑張って書く。少々荒っぽい文章になるが、お許しを。

 文学講座に参加して

この取り組みは、本離れの激しい現代に、少しでも多くの人たちに文学に興味を持ってもらいたいと願い、2016年から開始された。有名な作家さんが、私たちと同じ空間で、本のことや、作家としての活動を詳しく話してくれるので、とても貴重なイベントであると共に、文学について詳しく知れる大切な場となる。私自身、純文学に関してはあまり詳しくはなかったので、この講座に参加し、新たに知見が広げられることを考えると、それだけで胸が高鳴った。今回は東京の上智大学で行われた。約50名の参加者が訪れるとあらかじめ告知されていたけど、実際にはその倍近くの人たちが集まったので、正直とても驚いた。最近の本離れを感じさせないほど、皆、今回の講座を楽しみにしている様子だった。主催者によると、どうやらたくさんの応募があったらしく、50名だけではもったいないということで、できるだけ多くの人を招待することにしたそうだ。そう考えると、私は当たっていなかった可能性もあるので、主催者のサービス精神にただただ感謝する限りだ。

当講座は「文学の可能性と面白さ」をテーマに、芥川賞作家の中村文則さんが直々にお話をしていき、そして、一通りお話が終わったら、今度は参加者側が中村さんに対して色々質問をしていくという流れだった。教室から溢れんばかりの人がいたので、質問をすることは叶わなかったが、沢山の興味深いお話を聞くことができたので、参加して良かったなと、心から思った。

課題図書を読んで

今回の講座では議論を深めていくために、2冊の課題図書を読むように言われていた。中村文則著「私の消滅」と、アルベール・カミュ著「転落・追放と王国」の2冊だ。中村さんがこの2冊を課題図書に選んだ理由について、「私の消滅」は現時点では最新の小説にして過去の作品を上回る出来であり、さらに、今までとは少し違った手法を取り入れていたので、文学の面白さを伝えるのにはちょうど良かったからこの本を選んだそうだ。そして、カミュの「転落・追放と王国」は、中村さんがフランスに訪れた際、海外の読者から「『転落・追放と王国』の影響を受けているよね」と言われて、それで興味を持ったからこの本を選んだのだそうだ。しかし、実際には何の影響も受けておらず、たまたま中村さんとカミュの感性が似通っていたので、その読者が勝手にそう信じ込んでいただけだった。当講座では参加者といろいろな意見を交わし、物語の様々な視点を見つけていった。実際にこの2冊の本を対比しながら、読書について、そして、文学について考えていった。

この課題図書2冊に共通する部分は、登場人物の心には常に孤独が潜んでいるということ。中村さんの小説も、カミュの小説も、登場人物は常に孤独で、今まで過ごしてきた人生を回想しながら、必死に、人生の意味について見出そうとしていた。カミュの小説は、告白文として綴られている。それ故、主観的で捻くれた意見が多く入り混じっており、読んでいて窮屈さを感じ、そして、理解しえない部分が多く存在した。様々な思いが複雑に絡み合い、暗号のような人生論をこれでもかと聞かされているかのようだった。中村さん自身も、カミュの本にはよく分からない部分が多くあると指摘していた。当然、このような主観的な部分が多々見られるから、色々な解釈が生まれてくる。登場人物がどのようなことを思い、なぜあのような行動をとったのか。それは登場人物の過去の出来事により形成された性格で判断したり、作者であるカミュ自身の性格から推測して、登場人物の気持ちを考えたり、本当にいろいろな角度から、物語の動きを見つめていった。カミュの小説は、全体的に複雑で、簡単には理解できない作品だった。

一方で、中村さんの小説は、記憶を主体にして(今回は「私の消滅」)物語を描き、私とは何か、その一点だけをテーマに話を進めている。人間の内面の、さらに奥の暗闇を、ストレートに描いているので、読んでいてすんなりと心に響いてくるものがある。(中村さんの作品はどれもそんな感じ)カミュと比べて複雑ではなく、シンプルな構造で成り立っている。
中村さんはこのようなことを言っていた。「カミュは文体に性を含ませている。そして、僕は文体に水(生)を含ませるようにしている。そこが大きな違いだろう」
文体に何を含ませるかは作家さんの自由で、中村さんはそれを意識的にやっている。だから、カミュも意識的に複雑な作品にしたのかもしれない。皮肉な戯言さえも、考えさせるような文体にして。

私の消滅」は、最悪の犯罪者と呼ばれる宮崎勤が登場する。その宮崎勤の犯罪に至るまでの精神、いわゆる心の内面の描写が、とても恐ろしかった。気味が悪い、と言った方が正しいかもしれない。中村さんは彼の内面に潜り込み、歪んだ性癖と、そして、過去のいじめが、このような幼児の性犯罪に繋がったのだと主張していた。しかし、私にはどうしても理解できない部分があった。例えばネズミ人間が出てくる場面や、過去の幼い自分を引き合いに出して、幼女と親し気に会話する場面など。それはただのわがまま、あるいは強い妄想癖があるに過ぎないのではないか。それをあたかも病気と見せかけ、刑を軽くしようと企てていたのではないか。しかし、無意識と意識の間を生きる宮崎勤のことを、やはり完全には理解できない。統合失調症にもなったことがないので、完全には分からないけど、やっていいことと、やってはいけないことの区別が出来なければ、そもそも人間てして生きてはいけなかったはず。

ああ、書いていてよく分からなくなる。「私の消滅」は、ミステリー寄りの純文学として描かれている。(これが新しい手法。ミステリーと純文学をうまいこと融合させるのはとても難しいことらしい)だから内容としては曖昧な部分があるので少し難しい。それにしても、中村さんの小説や、カミュの小説を、心から共感できる人はいるのだろうか。いたら、怖い。でも、簡単には共感できない小説があるからこそ、多くの人が悩み、考え、いつまでも読み継がれる文学作品として、存在していくのだろう。

作家になるためには

今回の講座には、作家志望や編集者志望の方がたくさん参加されていた。私はもっぱら中村さんの本を手に取って読むだけの一読者に過ぎなかったので、周りの志の高さに少々気圧されていた。でも、中村さんの話は、今後の人生の参考にもなるので、周りの空気に飲み込まれないように、自分のペースで話を聞いていった。

作家になるためには、何から始めたらいいのか。そして、何を継続して頑張ればいいのか。おそらくそれは作家を目指す人にとっては一番知りたいことだと思う。しかし、明確な答えがあれば、誰もが作家になれてしまうし、作家という特異な職業を単純に「こうすればなれるよ」と、説明しても、そんなの面白みの欠片もない。中村さんは自身が作家になるまで、どのようなことをしてきたのかを詳しく話してくれた。

中村さんは大学を卒業してから、フリーターでずっと小説を書き続けていた。とにかく、自分は作家になるんだ、という強い思いだけを胸に秘め、書き続けた。この時点で彼の努力が垣間見えると同時に、彼が非常に真面目な人間であるというのが分かる。

私は就職して働いている人間が、真っ当な人間だとは思っていない。もちろんちゃんと働いて、世のため人のために働く人たちを、心から尊敬しているし、私もそうなりたいと思っている。でも、目標もなく、ただ、だらだらと仕事をしていくのは、死んでいるのと一緒だ。まだ自分の好きなことをして、ヘラヘラと過ごしていた方がマシだと感じる。でも、生きるために嫌なことをしていかなければいけないのも事実で、そこをうまく折り合いを付けていくことが大切なんだと、社会人2年目になって思うことがある。

話が逸れてしまったが、中村さんは、作家以外になりたいものは特になく、とにかく執筆活動に熱を入れた。初めて小説を書き上げた時「自分は天才なのではないか」と思ったらしい。誰も評価していない作品を書いて、自分が天才だと感じるのは、少し自意識過剰だと思うけど、それでも、自分の作品をこれほどまでに特別視できるのは、ある意味すごいことだと思う。私は今までそんな経験がない。出来上がった作品を賞に送ってみたものの、一次選考で落選してしまう。その時、中村さんは、郵便局員が出し忘れただけだと思ったらしく、今度は郵便局を変えて、もう一度賞に応募してみたらしい。それでも、あっけなく、また一次選考で落選してしまったので、ここでようやく、自分の小説が悪いのだと気づいたそうだ。

面白い人だな、と参加者たちは笑っていたけど、私は「こんなにも真摯に自分の目標に向き合っている人を、他に見たことがない」と、素直に感心してしまった。どんなことでも言えることだが、チャレンジしたいものがあれば、積極的にチャレンジすることが大切で、誰かに見てもらわないと気づけないこともある。もし中村さんが小説ばかりを書き続けて、いつまでも賞に応募しなかったら、きっと、作家となって、私たちの前で、文学を語ることはなかった。いつまでも自分の世界に閉じこもってばかりでは、気づけないこともあるのだと、改めて気づかされた。

その後、中村さんは、「銃」という作品で、新潮新人賞を受賞する。受賞する前の心境は、すさまじいものだったと聞いたことがある。夜、散歩をしていて自転車のベルを鳴らされたとき、それが「邪魔だ、どけ」という言葉に聞こえ、自分は社会に必要とされていないんじゃないかと、想像するまで、追い詰められていたらしい。これは講座では語られてはいないけど、よく話されるエピソードで、この時の危ない気持ちが、新人賞に選ばれた「銃」に、すべて込められているらしい。「銃」は数年前に読んでみたけど、たしかに、人間が持つ危ない気持ちがしっかりと反映されていた。

しかし、驚いたのが、中村さんは賞を受賞したと同時に、法務教官の試験にも受かっていたということだ。これを聞いて本当に努力の天才だなと思った。日本文学・世界文学を読み漁り、執筆活動に精を出し、そして、その傍ら公務員の勉強をする。考えただけでも、到底真似できないと思った。人生で興味のある仕事は作家で、社会的に興味のある事柄は少年犯罪。もし作家になれないのなら、少年院の先生をしながら、小説を書いていくという計画を立てていた。でも、現実問題、働きながら小説を書くのは難しいと思っていたので、実際に法務教官として働くかどうかは分からなかったらしい。本当に真面目すぎるよ、中村さん。でも、中村さんが少年院の先生になって、非行に走った少年と向き合っていたら、その少年はきっと人生に意味を見出せていたと思う。

何かを成し遂げるためには以下の三つが大切だと教えてくれた。これは作家に限らず、何かを目指している人にも当てはまることだと思う。

努力する

客観視する

個性を出す

上記のように、中村さんは努力していた。努力することは当然大切なことで、努力なくして何かを成し遂げたとしても、価値はないと思う。積み重ねていったものが、やがて評価され、その積み重ねを大切にしながら、さらに、この先を頑張っていくことが、目標を叶えた本当の姿だと思う。

そして、しっかりと客観視することも大事で、ただの趣味で自己満足の為にやるのなら話は別だけど、多くの人に評価されたいのであれば、ある程度の客観視が必要になってくる。中村さんは、自分の書いたものをプリントアウトして、数日寝かせた後にまた読み返す、といった作業をしていた。そうすると文章の粗が分かってくるらしい。それを何度も繰り返しながら修正していく。そういった手間を惜しむことなく、自分の書いた作品を見つめ直していくことで、多くの人に共感を得られる作品に仕上がるのだと分かった。

個性を出すことも重要で、誰かの真似ばかりしていては、目に引くものを書くことができない。自分がどう思ったのかを、しっかりと考えていくことが大事。それが、たとえ誰かと似通ったものになったとしても、それでも自分が考えたものであれば、それが個性になる。個性があってこそ、初めて楽しいと思えて、それが自分らしい作品へと変わっていく。

後、小説脳の話もしてくれた。小説脳とは、先の展開を考えずに、無意識的に物語を書いていくことだ。これは伊坂幸太郎さんもやっている手法で、とにかく自分の感性だけで、思うがままに書き進めていく。最初に「こんな結末にしようかな」と考えていたものが、全く違った結末になることさえある。しかし、ストーリーが最初に考えたものとまったく違うものになった方が、面白い小説になっていくのだと言っていた。もちろん、ただ書き進めるだけでは着地点を見失うので、無意識的に書いた物語を、改めて意識的に書き直していくことが必要になってくる。これらのルーティーンを中村さんはやってのけている。これは、おそらく生まれ持った才能なのかもしれない。研ぎ澄まされた感性が、人を魅了する物語へと変えていくのだろう。今回の課題図書である「私の消滅」も、木の枝を見て、そこから悪の伝播を想像して、いろいろな繋がりを連想しながら、物語を書き始めたと言ってた。そして、物語の中盤で出てきた事柄が、最後の最後で一致する時、自分のしてきたことが正しかったと再確認できるらしい。それは、今まで生きてきた全ての記憶の連なりが、自然と物語の行く末を切り開いていることなのかもしれない。

作家になるために、その質問に、明確な答えはない。自分の色を出していくことが、作家を目指すにしても、何かをするにしても、大切なのではないだろうか。

まとめ(文学の面白さとは)

文学講座に参加してみて、印象に残ったことと言えば、やはり読む人によって色々な違った解釈があるということだ。自分だけ違う意見を持っていたとしても、それは間違いではなく、むしろ、他の人とどこが違うのかを考えることができるので、より物語の深みを探すことができる。それはある意味、自分の個性を見つけ出すチャンスになるし、文学を楽しむ一つの方法にもなる。

人生に答えなんてない。それは文学作品も同じで、それぞれ違った物語がある。文学的なことと人生を繋ぎ合わせるのは、浅はかな考えだと思うが、文学作品は作者の心を映す鏡であると私は思っているから、人生の道しるべになったりすることも、もしかすると、あるかもしれない。

文学は、一つの答えに帰結しない。たくさんの違った感じ方を味わうことができ、多様な感性を育てるきっかけにもなる。

今回は文学の面白さを知ることがメインの講座であった。文学の面白さを心から味わうことができれば、この先きっと自分の個性を見つけ出し、自分らしく生きていけることに繫がるはずだ。

どんなことにも、意味はある。その意味をしっかりと考えて、自分の意見として発信していき、もっともっと、自分らしさを磨いていけたらなと思う。
それは、このブログや、その他、何らかの形で残していきたい。
それがいつか自分の為に、そして、誰かのためになると信じて。