心はいつも雨模様

記憶より記録

中村文則さんの小説との出会い

 初めて中村文則さんの小説を読んだのが、大学3,4年生くらいの頃だったろうか。当時からクソ真面目だった私は、この先の進路や人生のことに思い悩んで、何をしてもボンヤリと考え込んでしまうような日々を送っていた。もちろん何もしていなかったわけではない。将来に向けて、周りの学生たちよりも勉学に励み、輝かしい青春を擦り減らしてきた。結局その勉学は就活においては何の役にも立たなかったけど、今の私にとっては生きるための大きな糧となっている。傍から見れば、ちっぽけな糧だけどね。

 

 そんな大学生の後半、就職や人生のことで、誰もが悶々とした悩みを抱きながら過ごすであろう時に、私は中村文則さんの小説に出会った。

 

 アパートから自転車で数分の距離に大きなゆめタウンがあって、その中に大きな書店がある。本が好きだった私は、暇を見つけてはその書店によく立ち寄っていた。書店に行き、まずやることと言えば、おすすめの本が紹介されているコーナーをじっくりと見て回ること。見て回っているうちに「これだ」と思う本があればすぐに買い、そして「いつか読んでみたいな」と思う本があれば、スマホでメモを取る。その後Amazonなどでその本を取り寄せる。そういった具合にその書店をうまいこと有効活用していた。もちろん小説を見る以外にも、専門書やビジネス書、エッセイ、絵本、漫画など、適当にパラパラとめくることも書店でやることの一つだった。

 

 何もかもが分からなくなっていた当時の私は、気晴らしの為にその書店に足を運んだ。いつも通り、おすすめの本が紹介されているコーナーに行き、適当に見て回った。面白そうな本がたくさんあったけど、その時は、どれも読みたいとは思えなかった。おそらく本を読むことの意味をどこかで考えていたんだと思う。実益性のない本なんて、読むだけで無駄だ、と、その頃の私は、思っていたのかもしれない。

 たくさんの本が紹介されている中で、一冊だけ異様に暗い表紙の本があり、すぐに目に留まった。それが中村文則さんの『何もかも憂鬱な夜に』という本だった。表紙が深海のように暗いのにタイトルも恐ろしく暗い。一体この本はどういう物語なのだろうかと非常に気になった。本の裏に記載されているあらすじを読んでみると、刑務官が死刑制度について深く考える物語だと分かりすごく興味をそそられた。死刑に関することだから、きっと暗い話が続いていくんだろうな、今の私の心境に多少なりとも潤いを与えてくれるだろうな、と期待してしまい、その本を迷わず手に取り、レジへと向かった。

 

 アパートに帰り、さっそく読んでみると、すぐに物語に惹き込まれていった。読み終わると、今までにない感動がふつふつと込み上げてくるのが分かった。冒頭の夢の話、自殺した真下のノート、山井死刑囚の手紙、一つ一つの言葉や登場人物の心情に、深く心を揺さぶられた。死刑制度について問う話だったけど、それよりも、人間の心の闇をこれほどまでに深く、鋭く、大胆に描かれていることに強い印象を持った。言葉にできないような狂気的な人間を描いた本を読んだのは初めてのことだったので、ある意味新鮮だった。

 中村文則さんの作品全体のテーマは下で生きる人たちの祈り願いだということは後になって分かる。就活でぐずぐず悩んでいた当時の私を、思いっきり奮い立たせてくれたのがこの『何もかも憂鬱な夜に』という小説だった。

 一冊の本がこうして自分の思い出に寄与していることを考えると、特別な本であることを改めて実感する。

 このようにして私は中村文則さんという作家さんに出会い、愛読者となっていったのである。

 

ヘンテコな年越し

 世の中の人々は年越しをどのように過ごしているのだろうか。今まで私は、地元の友達と遊んだり、実家でのんびりと過ごしたりと、ありきたりな年越しがほとんどだった。だから年越しの過ごし方というのを特に考えたりすることはなかった。私と同じように何も考えず地元でだらだらと過ごしている人はきっと多いはず。多分。

 社会人になり、実家から遠い地で働いているため、年末に地元に帰省するのが面倒くさくなったので今年は一人で年越しすることにした。でも初めての一人年越しはさんざんたる結果で終わってしまったので、その無様な有様をここに記すことにする。来年も同じことを繰り返さぬように。

 

「とりあえず年末は京都をぶらぶらと散歩して、いろいろ見て回ろう」

 数ヵ月前にそう計画した。京都には古い名の知れたお寺や、華やかなお店がたくさんあるので、足を運ぶだけで充実した時間が過ごせる、そう思った。でも計画はあくまで計画で、年末当日はほとんどが計画通りにいかないものとなってしまった。

 

 京都へ行く途中、とにかく仕事のことで頭がいっぱいだったのでのんびりと過ごせるような心境ではなかった。

「仕事が嫌で仕方がない。この先、今の仕事を続けていくべきなのだろうか」

「人生って難しいな…私に合った生き方とは、いったいどのようなものなのだろうか」

 電車の窓から過行く景色を眺めながら、今後のことをぐるぐると考え続けた。考えすぎた挙句、急に激しい頭痛に襲われた。京都へ旅行する前日も、考えすぎて食事が喉を通らないほどに身体が弱っていたので、この時、心も体もボロボロだった。

 

 京都駅に到着し、急にひどい疲れに襲われた。

「これは一旦休んだほうがいいな。ひとまずホテルへ行って休憩しよう」

 京都の地に足を下ろして数分しか経っていないのに、さっそく今夜宿泊するホテルへと向かう。

 チェックインして部屋に入り、ベッドに横になる。

「他の人たちはきっと楽しい年末を送っているんだろうなあ」と不意に悲しくなる。

 目を瞑ると、激しい眠気に襲われて、そして、次に目を開けたときは夕方18時を過ぎていた。

「何やってんだ私は。後30分くらいでガキの使いが始まってしまうではないか」

 すぐに夕食の買い出しに行き、年越しそばを買う。帰ってシャワーを浴びて、ガキの使いを観るためにテレビをつける。

「なんだが実家にいる時の年越しと変わらないなあ」とそばを食べながら思った。

 そばを食べ終え、ベッドに横になり、のんびりとテレビを観る。

 そして気がつけばまた眠ってしまっていた。次に目を覚ました時は、除夜の鐘が夜の京都に響き渡っている時間帯だった。つまりあと少しで年越しというところだった。しばらくしてスマホを確認すると、12時を回っていた。

「年、越しちゃったんだなあ」と布団に包まりながら呟いた。 

 

 反省点は切り替えが大事だということ。嫌なことは忘れて、楽しいことだけを考えることは、生きる上で必要なスキルだということを改めて実感できた。天才棋士羽生善治さんだって、忘れることは大事だと言っていた。

 

 思い出深い年越しにはならなかったが、あまりにも計画通りにいかない何もない年越しだったので、ある意味印象深い年越しとなった。

 

 こんなヘンテコな年越しを味わった人がこの世にいるのだろうか。

『聲の形』を観て思ったこと

 昨年、秋の深まる時季に映画『聲の形』を観に行った。『君の名は。』があまりにも人気すぎて存在感が薄れてしまった映画だけど、『君の名は。』に十分匹敵するくらいの素晴らしい作品だった。全体のストーリーに強く胸を打たれてしまい、ついつい漫画も購入してしまったほどだ。今回はそんな『聲の形』について感想を書いていこうと思う。

 漫画の冒頭は「西宮硝子、俺は彼女が嫌いだった」という言葉から始まる。その言葉には様々な意味が込められていて、『聲の形』全体の話に通じてくる。

 物語の内容を簡単に説明すると、小学生だった石田という男子が、自分のしでかしたいじめをきっかけに孤立してしまう。死にたいと思っていた気持ちをなんとか振り払い、後悔で塗り固められた過去の過ちをどうにかして清算しようと試みながら、みんなとの間柄を取り戻していこうとするお話。現実では、一度壊れてしまった関係性を修復するのには、非常に困難だということが分かる。映画や漫画でも、いじめによって壊れてしまった人間関係の修復の難しさが事細かに描かれている。

 他人と違ったものを抱えている人は、いじめの対象になりやすい。西宮硝子は生まれながらにして耳が聴こえないというハンデを持ち、それがいじめの対象になってしまって、うまくいかない小学生時代を過ごすことになる。そのいじめの主犯であった石田は、最初は最悪な奴だと思っていたけど、物語を読み進めていくうちに、石田だけが悪いのではないと分かっていく。そこがいじめを考えるにあたって難しい問題なのだと思う。

 確かに、高価な補聴器を壊したり、耳を怪我さしたりするのは度を過ぎていて、本当に許されない行為だけど、でも、表面上に現れる悪さはまだ救いがあるような気がする。本当に気持ち悪いのは、すべて石田のせいにしてしまおうとする、周りに立ち込める空気感だ。無言の重圧は本当に心にくる。特に西宮は耳が聴こえないので、周りからの視線を誰よりも感じ取っていたはずだ。

 最後、死に追いやられるほどの気持ちを抱えている西宮を思うと、胸がひどく傷む。これを思うと、『聲の形』の意味が何となく分かったような気がした。それは本人には聞こえることのない、届かない声も、聲の形として存在するのだということだ。冒頭の「西宮のことが嫌いだった」という言葉や、上野が最後の最後でも「西宮のことが好きになれない」と言い放つ言葉も、それもすべて聲の形の一つだと言えることが何となく想像できる。私だけかもしれないけど。

 人はそれぞれが違った闇を抱えている。それ故、人間同士でどうしても分かり合えない問題が出てくる。自分が辛いと思ったことも、相手からしたらどうってこと無いただのお遊びのようなことだと思われることもある。だから、無理に自分を追い詰めるようなことをする必要もないし、自分の犯してしまった行為に対して、償うことも大切だけど、何より死に値するようなことまで考えなくてもいい。

 結局のところ何が悪いのか分からない。いじめは悪いことだけど、ひとえにそれが悪いとなると、加害者をただの悪者扱いするだけとなってしまい本当の解決は望めない。被害者、加害者、周りの取り巻く環境、それらが複雑に絡み合って予想もしない問題が起こってしまうのだから、そのすべてに向き合っていかないと、おそらく先には進めない。『聲の形』という物語は、その問題に真っ向から挑んでいく、ある意味いじめの本当の向き合い方を問う作品であるように私は思う。