心はいつも雨模様

記憶より記録

映画『花戦さ』を観て

30回以上映画館で映画を観て

社会人になってから、映画館に足を運んだ回数がついに30を超えた。映画通にはまだまだほど遠い回数だけど、最近は見たい映画を上映が開始される前の予告で決めるようになったから、以前よりも映画に対する期待や興味、そして関心が増しているように思う。

観た映画の感想をすぐに書いていきたいけど、いかんせん時間がないので、なかなかこのブログに書けずにいる。そのことが非常に悔やまれるのだけど、「何がなんでも感想を書いていくんだ」という無理な意気込みをするのも逆に苦痛になったりすることもあるので、細々とブログを続けていくために、これからもマイペースに何らかの作品の感想を書いていきたい。

『花戦さ』を観て

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30回以上映画館で映画を鑑賞してきて、その中からなぜ『花戦さ』を書くに至ったのかというと、今年観た映画の中で、一番良い作品だと思ったからだ。映画の予告では「けったいな男が~、信長が褒め~、千利休が慕い~、秀吉をギャフンと言わせた~」と、面白おかしいフレーズが走馬燈のようにスクリーンを流れていたので、「『花戦さ』はきっとコミカルな映画なんだろうな」と自分の中では思っていた。私自身こういった時代背景の映画はまったく観てこなかったので、気難しくもあり、でも歴史の勉強にもなる、悪く言えば、おじさんが観るような映画を観ることになるんだろうなと、若干ではあるが覚悟していた。

しかし、今回の『花戦さ』は予告とは裏腹に、コミカルさもありつつ人間性や芸術性が多く描かれた素晴らしい作品だった。池坊専好が生ける花は面白味があって「生け花」についてまったく知らない私でも、「花」が醸し出す可憐な芸術を味わうことができて、観ているだけで心が豊かになれた。

「芸術に決まったものはない」そのような考えは昔からあり、いつの時代も型破りな考えは時として天才と謳われるが、その一方で「あいつは変わった奴なんだな」と周りからは一目置かれ、遠い人として認識される。その周りからの圧力が人を苦しめたりもする。映画での池坊専好は変わった人物ではあったけど、周りの圧力に屈することなく、自分の好きなやり方で生け花を極めようとする姿は勇ましくもあり、そして、変わった視点で人々を魅了していく姿は、グローバル化を謳いながらも没個性化に突き進んでいく日本に、一つの警鐘をならしていると私は感じ取った。

千利休はどうすれば救われたのかをずっと考えていた。あのまま秀吉に土下座をして、謝っていれば、命だけは助かったのかもしれない。でも、そのような行動をとっていたら、きっと現在まで「千利休」が教科書に載るまで名前は轟いていなかったと思う。命を投げうってでも意志を貫き通して、わび茶のあり方を守ろうとするその姿が、多くの弟子たちの心を揺るがし、現在も「茶道」が大切な伝統として受け継がれているのだろう。

秀吉の横暴かつ傲慢な態度は許されるべきものではないのは明白で、「猿」と口にしただけで幼い子供の首をはねる処罰のやり方は、まるで小学生の浅はかな考え事のようだと思った。よくそんなんで天下統一を果たせたものだと考えたりしたけど、世を治める偉い人間が必ずしも知的である訳でないというのは、現代の、上に立つ人たちの姿を見ていると頷けるのはよく分かる。どの時代も、上司の人間性による周りへの負の影響は、多くの人の悩みの種だったのかもしれない。

おわりに

 大学受験でちょっとばかり歴史を学んできたけど、過去の出来事を頭に詰め込んだだけでは、受験以外では何の役にも立たない。当時の人々の気持ちを考えていくことも立派な勉強になるのだと最近よく思う。過去の過ちを繰り返さないのが歴史の一番の存在意義なら、なおさら必要だと考えるけど、どうなのだろう。私だけが感じていることなのだろうか。

人の気持ちを考えることは、とても大切なこと。池坊専好は秀吉にそのことを分かって欲しかったし、希薄になりつつある現在の人間関係を良好に保つには、それは必要不可欠なことだと私は思う。