心はいつも雨模様

記憶より記録

『聲の形』を観て思ったこと

 昨年、秋の深まる時季に映画『聲の形』を観に行った。『君の名は。』があまりにも人気すぎて存在感が薄れてしまった映画だけど、『君の名は。』に十分匹敵するくらいの素晴らしい作品だった。全体のストーリーに強く胸を打たれてしまい、ついつい漫画も購入してしまったほどだ。今回はそんな『聲の形』について感想を書いていこうと思う。

 漫画の冒頭は「西宮硝子、俺は彼女が嫌いだった」という言葉から始まる。その言葉には様々な意味が込められていて、『聲の形』全体の話に通じてくる。

 物語の内容を簡単に説明すると、小学生だった石田という男子が、自分のしでかしたいじめをきっかけに孤立してしまう。死にたいと思っていた気持ちをなんとか振り払い、後悔で塗り固められた過去の過ちをどうにかして清算しようと試みながら、みんなとの間柄を取り戻していこうとするお話。現実では、一度壊れてしまった関係性を修復するのには、非常に困難だということが分かる。映画や漫画でも、いじめによって壊れてしまった人間関係の修復の難しさが事細かに描かれている。

 他人と違ったものを抱えている人は、いじめの対象になりやすい。西宮硝子は生まれながらにして耳が聴こえないというハンデを持ち、それがいじめの対象になってしまって、うまくいかない小学生時代を過ごすことになる。そのいじめの主犯であった石田は、最初は最悪な奴だと思っていたけど、物語を読み進めていくうちに、石田だけが悪いのではないと分かっていく。そこがいじめを考えるにあたって難しい問題なのだと思う。

 確かに、高価な補聴器を壊したり、耳を怪我さしたりするのは度を過ぎていて、本当に許されない行為だけど、でも、表面上に現れる悪さはまだ救いがあるような気がする。本当に気持ち悪いのは、すべて石田のせいにしてしまおうとする、周りに立ち込める空気感だ。無言の重圧は本当に心にくる。特に西宮は耳が聴こえないので、周りからの視線を誰よりも感じ取っていたはずだ。

 最後、死に追いやられるほどの気持ちを抱えている西宮を思うと、胸がひどく傷む。これを思うと、『聲の形』の意味が何となく分かったような気がした。それは本人には聞こえることのない、届かない声も、聲の形として存在するのだということだ。冒頭の「西宮のことが嫌いだった」という言葉や、上野が最後の最後でも「西宮のことが好きになれない」と言い放つ言葉も、それもすべて聲の形の一つだと言えることが何となく想像できる。私だけかもしれないけど。

 人はそれぞれが違った闇を抱えている。それ故、人間同士でどうしても分かり合えない問題が出てくる。自分が辛いと思ったことも、相手からしたらどうってこと無いただのお遊びのようなことだと思われることもある。だから、無理に自分を追い詰めるようなことをする必要もないし、自分の犯してしまった行為に対して、償うことも大切だけど、何より死に値するようなことまで考えなくてもいい。

 結局のところ何が悪いのか分からない。いじめは悪いことだけど、ひとえにそれが悪いとなると、加害者をただの悪者扱いするだけとなってしまい本当の解決は望めない。被害者、加害者、周りの取り巻く環境、それらが複雑に絡み合って予想もしない問題が起こってしまうのだから、そのすべてに向き合っていかないと、おそらく先には進めない。『聲の形』という物語は、その問題に真っ向から挑んでいく、ある意味いじめの本当の向き合い方を問う作品であるように私は思う。