心はいつも雨模様

記憶より記録

ボウリングのピンを気持ちよく倒す方法

一昨日会社で少人数のボウリング大会があった。ボウリングは苦手なのであまり乗り気ではなかったのだけど、無下に断るのも悪いと思ったので、しぶしぶ「行きます」と参加の意を表明した。

今回はボウリングのピンを気持ちよく倒す方法を編み出したので、ここにその手法を書き記そうと思う。とても簡単な方法なので、点数に伸び悩む人や、ボウリング自体がつまらないものだと思っている人がいたら、よかったら参考にしてみて欲しい。

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ボウリングの球はどれも重たいので、私みたいに非力だと、ピンを勢いよく倒して周りのピンを弾き飛ばすような真似ができない。もちろん、ただ力任せに投げても駄目で、適したコースに行かない限りは高得点は望めない。うまく工夫を凝らさないと、右へ左へあれよあれよと軌道が逸れてしまい、あっけなくガーターの餌食となってしまう。

どうすればボウリングで高得点が狙えるのか。そんな悩める子羊たちに救いの手を差し伸べられる最善の手法がある。それは、、、球に憎しみを込める、、ただそれだけである。私はこれを『憎しみボール』と呼んだ。憎しみのこもった『憎しみボール』はただ重いだけでなく、いやしくも負の愛に満ち溢れた、ずーんと重たい想いも込められることになるから、球は自ずと力を発揮してくれる。

私は、5,6月、特にストレスの溜まる月であったから、その鬱憤を晴らすべく、全ての憎しみを球に込めた。それは流れ星に願いを込める、純粋な少年少女の心情とは真逆で、ただただ純粋な憎しみを球に注ぎ込む真性のヒネクレ者のそれである。

さらに、投じる時は、心の中で「あんのクソ○○○!」と、教育上よろしくない言葉をわめき散らす。そうすると、憎しみの増進は、なお効果的でよろしい。しかし、あくまでも心の中、でね。つい口に出してしまうと、嫌な奴と思われてしまう可能性もあるので注意が必要だ。

するとどうだろう。不思議なことに、あれよあれよとピンがドミノ倒しのように倒れていく。スプリットの状態でも、ピン同士が示し合わせたかのように、バタバタと倒れていく。その光景を、私はこの目でしかと目撃した。嘘ぢゃないよ。

あまりにも面白くピンが倒れていくので、点数に伸び悩む先輩社員が「マルイネコの球は、ピンをはねのけるような、何か、特別な強い想いが込められているね」と私の投じる『憎しみボール』を羨ましそうに眺めていた。それが上長に対する狂おしいほどの憎しみが込められているとは、あなたには、分かるまい。

以上。ボウリングで高得点を叩き出したいのなら、嫌いな人間を想像し、球をゴロゴロ転がしてみると良い、という話でした。

ここまで読んで、具体的な技術が全く書かれていないことに、この記事をご覧になった読者様はきっと不満を抱くであろう。

しかし私は主張したい。

ボウリングという球技は、技術なんて二の次で、ストレス発散の為にあるのだ、ということを。心の中に溜まったストレスという名の厄介なピンを倒すために存在する、心の健康に良いスポーツだと私は考えている。

ただ、憎しみのあまり我を忘れて、ボウリング自体がつまらなくなっては、私の不徳の致すところであるから、自分の中にあるキラキラとした純粋な気持ちとうまく折り合いをつけながら、ボウリングを楽しんでほしいと、心から願うばかりである。

そもそも、ボウリングって、こんなに複雑なスポーツだったっけ?

驟雨日記 ~ 夏目漱石の本を受け取る ~

一日の仕事を終え、アパートに帰ってすぐにシャワーを浴び、そのまま椅子に座りホッと一息つく。「今日も何もなかったなあ」と、変化のない日々に文句を言いながらも、しばらくすると、仕事の疲れが出てきたのか、机の上でウトウトとし始める。

そんな矢先のことだった。半ば夢心地の気分でそのウトウト眠りを味わってた時に、突然、空間を引き裂くようなインターホンの音が部屋中に鳴り響いた。私は不意打ちを食らったかのごとく驚き、まどろんだ夢の世界から引きずり出され、つまらない現実に呼び戻される。いつもそうだ。いつもいつも、誰かが私の眠りを妨げる。

スズメの涙ほどの憎しみを抱えながら「よっこらせ」と椅子から立ちあがり、玄関へと向かう。するとまた「ピンポーン」と続けざまにインターホンがなった。

「ずいぶんとせっかちな訪問客だな」とウミガメの涙ほどの憎しみを抱えながら玄関の扉を開けると、この世の終わりを迎えたかのように、険しい形相をした女性配達員が私の目の前にヌッと現れた。若干ホラーに近かった。
「これに、、、サインを」と片腕をプルプルと震わせながら私宛の荷物を持ち、そして、もう片方の腕で領収書を差し出してくる。「えーと、どこにサインすればいいんですか」と暢気に質問していると、「ここ!!!」と、間髪入れずに、またしても険しい形相で私を睨んでくる。もっと落ち着けばいいのに。

受領のサインを書いて女性配達員に差し出すと、その配達員は獲物を狩るかのごとくシャッ!と領収書を受け取り、そして余計なお荷物を切り捨てるように、私に荷物を託した。予想もしなかった重さに思わず「うわ重た!」と声が出た。その間抜けな姿を見て女性配達員はフッと鼻で笑った。そして、とんずらした。

箱の中身はおおかた予想はついていたけど、漱石全集がこんなにも重量感のある代物だとは思わなかった。箱を開け中身を確認すると、分厚い古文書のような本がわんさか出てきた

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「なんでこんな写真を撮ってんだ。早く読めよ」と周りからはブーブー文句を言われそう。
ただ、今は、古い本の匂いや、多くの人の手に渡ってきた古本自身の過去を、しっかりと味わっていたい。

図書館で味わうようなことを、まさか自宅で味わうことになろうとは、本当に夢にも思わなかった。

私は一体どこに進んでいくのだろうか。

夏目漱石の世界を旅してみようと思う

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夏目漱石の世界を旅してみよう」

そのような考えに至った理由は三つある。どれも中村文則さんの文学講座に参加し、そこで得た知識と感慨深いお話を参考にして、自分のやるべきことを見定めた上での考えだ。

読書の幅を広げる努力をし、見識を高める。

これまで、ある程度の現代の人気作家の小説を読んできた。もちろん、読んでない本はこの世にごまんと存在し、まだ私の知らない心を揺さぶるような本が書店や図書館などにたくさん眠っている。それらを探し回って読みたい本をもっともっと積み重ねていくのもきっと楽しいことだろうし、他人の考えを取り入れるだけで感性が豊かになれる。

でも、私は分かってしまった。このまま今の読書体制を続けていても、なんの成長もなしに、ただ楽しいだけで終わってしまうということを。読書は楽しむためにあるのは間違いない。それはとても大切なことで、読書をする上では絶対に忘れてはならないことだ。しかしそれだけだと、自分自身が大きく成長できない。見識を今以上に高めていく為には、現代の大衆受けする本では限界がある。

夏目漱石の小説は、日本文学の礎を担い、多くの人に影響を与え、たくさんの有名な作家を生み出してきた。もちろん現在も、海を越えて多くの人に読み継がれている。少々難しい文体だけど、私もチャレンジして、夏目漱石がどのようなことを考えていたのかを想像しながら読んでみたい。

夏目漱石の考えを取り入れながら、自分を見つめなおす。

今年で25年目の節目を迎え、私もそろそろアラサーの仲間入りを果たす。しかし、ここまで生きてきて、自分の事をしっかりと理解しているかと聞かれると、正直自信がない。ただ分かっているつもりなだけで、本当のところは何にも分かっていないんじゃないかと思う。

子供の頃は空ばかり眺めて、とにかくどこか遠くに行きたいことばかりを考えた。漠然とした不安に怯え、弱い自分を悟られないように、できるだけ他人と距離をとり、「変な奴」とレッテルを貼られないよう、慎重に生きてきた中途半端なあの頃の自分と、今の自分は、さほど変わっていない。成長した感じがまるでない。このブログだって、です・ます調、だ・である調が統一されてないし、自分とはかけ離れたキャラで物事を語ったりしているところが、もうすでに痛々しいし、迷走しているのが窺える。

夏目漱石の考えを念頭に置き、自分を見つめなおして、本当の自分、新しい自分を見つけていきたい。

自分の考えを持ち、それを個性にする。

これが一番大切なことで、読書自体を自分の力にしていく、いわば個性にしていきたいと考えている。そのためには、本を読んで自分がどのような考えを持ったのかをしっかりと書き記していくことが重要となってくる。

物語を読み進めて行くうちに、人それぞれ違った感じ方や考え方が生まれてくるのは、中村さんの文学講座で学んだ。だから、たとえ稚拙な感想であっても、それは間違えではないと胸を張って言えることなので、恐れずに書いていこうと思う。

夏目漱石の小説を読破することで、考える力が身に付くと同時に、見識をうんと高めることができると、私は信じている。

まとめ

そんなわけで、漱石全集を買って読み進めていく。一度「吾輩は猫である」が難しすぎて挫折した経験があるだけに、多少抵抗はあるけど、自身の成長の為に何とか頑張りたい。しかし急いで読んでも内容が頭に入ってこなければ意味がないので、ゆっくりと自分のペースで読んでいくことにする。仕事や、他の本も読まなければいけないこともあるので、全て読み終えるまで、きっと年単位にかかるだろう。でもそれは、細々ながらも、何年もこのブログを続けていくことを意味している。

夏目漱石の世界を旅した記録をブログに書いて、それがいつか自分の成長の証として残っていたらいいなと、微かながら期待している。

いつか誰かがこの記録を読んで、「あははは、こいつ変なこと書いてる」と、笑ってくれる日がくるのだろうか。

そんな日が来たら、きっと、今よりも、成長しているんだろうな。