心はいつも雨模様

記憶より記録

夏目漱石の世界を旅してみようと思う

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夏目漱石の世界を旅してみよう」

そのような考えに至った理由は三つある。どれも中村文則さんの文学講座に参加し、そこで得た知識と感慨深いお話を参考にして、自分のやるべきことを見定めた上での考えだ。

読書の幅を広げる努力をし、見識を高める。

これまで、ある程度の現代の人気作家の小説を読んできた。もちろん、読んでない本はこの世にごまんと存在し、まだ私の知らない心を揺さぶるような本が書店や図書館などにたくさん眠っている。それらを探し回って読みたい本をもっともっと積み重ねていくのもきっと楽しいことだろうし、他人の考えを取り入れるだけで感性が豊かになれる。

でも、私は分かってしまった。このまま今の読書体制を続けていても、なんの成長もなしに、ただ楽しいだけで終わってしまうということを。読書は楽しむためにあるのは間違いない。それはとても大切なことで、読書をする上では絶対に忘れてはならないことだ。しかしそれだけだと、自分自身が大きく成長できない。見識を今以上に高めていく為には、現代の大衆受けする本では限界がある。

夏目漱石の小説は、日本文学の礎を担い、多くの人に影響を与え、たくさんの有名な作家を生み出してきた。もちろん現在も、海を越えて多くの人に読み継がれている。少々難しい文体だけど、私もチャレンジして、夏目漱石がどのようなことを考えていたのかを想像しながら読んでみたい。

夏目漱石の考えを取り入れながら、自分を見つめなおす。

今年で25年目の節目を迎え、私もそろそろアラサーの仲間入りを果たす。しかし、ここまで生きてきて、自分の事をしっかりと理解しているかと聞かれると、正直自信がない。ただ分かっているつもりなだけで、本当のところは何にも分かっていないんじゃないかと思う。

子供の頃は空ばかり眺めて、とにかくどこか遠くに行きたいことばかりを考えた。漠然とした不安に怯え、弱い自分を悟られないように、できるだけ他人と距離をとり、「変な奴」とレッテルを貼られないよう、慎重に生きてきた中途半端なあの頃の自分と、今の自分は、さほど変わっていない。成長した感じがまるでない。このブログだって、です・ます調、だ・である調が統一されてないし、自分とはかけ離れたキャラで物事を語ったりしているところが、もうすでに痛々しいし、迷走しているのが窺える。

夏目漱石の考えを念頭に置き、自分を見つめなおして、本当の自分、新しい自分を見つけていきたい。

自分の考えを持ち、それを個性にする。

これが一番大切なことで、読書自体を自分の力にしていく、いわば個性にしていきたいと考えている。そのためには、本を読んで自分がどのような考えを持ったのかをしっかりと書き記していくことが重要となってくる。

物語を読み進めて行くうちに、人それぞれ違った感じ方や考え方が生まれてくるのは、中村さんの文学講座で学んだ。だから、たとえ稚拙な感想であっても、それは間違えではないと胸を張って言えることなので、恐れずに書いていこうと思う。

夏目漱石の小説を読破することで、考える力が身に付くと同時に、見識をうんと高めることができると、私は信じている。

まとめ

そんなわけで、漱石全集を買って読み進めていく。一度「吾輩は猫である」が難しすぎて挫折した経験があるだけに、多少抵抗はあるけど、自身の成長の為に何とか頑張りたい。しかし急いで読んでも内容が頭に入ってこなければ意味がないので、ゆっくりと自分のペースで読んでいくことにする。仕事や、他の本も読まなければいけないこともあるので、全て読み終えるまで、きっと年単位にかかるだろう。でもそれは、細々ながらも、何年もこのブログを続けていくことを意味している。

夏目漱石の世界を旅した記録をブログに書いて、それがいつか自分の成長の証として残っていたらいいなと、微かながら期待している。

いつか誰かがこの記録を読んで、「あははは、こいつ変なこと書いてる」と、笑ってくれる日がくるのだろうか。

そんな日が来たら、きっと、今よりも、成長しているんだろうな。

映画『花戦さ』を観て

30回以上映画館で映画を観て

社会人になってから、映画館に足を運んだ回数がついに30を超えた。映画通にはまだまだほど遠い回数だけど、最近は見たい映画を上映が開始される前の予告で決めるようになったから、以前よりも映画に対する期待や興味、そして関心が増しているように思う。

観た映画の感想をすぐに書いていきたいけど、いかんせん時間がないので、なかなかこのブログに書けずにいる。そのことが非常に悔やまれるのだけど、「何がなんでも感想を書いていくんだ」という無理な意気込みをするのも逆に苦痛になったりすることもあるので、細々とブログを続けていくために、これからもマイペースに何らかの作品の感想を書いていきたい。

『花戦さ』を観て

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30回以上映画館で映画を鑑賞してきて、その中からなぜ『花戦さ』を書くに至ったのかというと、今年観た映画の中で、一番良い作品だと思ったからだ。映画の予告では「けったいな男が~、信長が褒め~、千利休が慕い~、秀吉をギャフンと言わせた~」と、面白おかしいフレーズが走馬燈のようにスクリーンを流れていたので、「『花戦さ』はきっとコミカルな映画なんだろうな」と自分の中では思っていた。私自身こういった時代背景の映画はまったく観てこなかったので、気難しくもあり、でも歴史の勉強にもなる、悪く言えば、おじさんが観るような映画を観ることになるんだろうなと、若干ではあるが覚悟していた。

しかし、今回の『花戦さ』は予告とは裏腹に、コミカルさもありつつ人間性や芸術性が多く描かれた素晴らしい作品だった。池坊専好が生ける花は面白味があって「生け花」についてまったく知らない私でも、「花」が醸し出す可憐な芸術を味わうことができて、観ているだけで心が豊かになれた。

「芸術に決まったものはない」そのような考えは昔からあり、いつの時代も型破りな考えは時として天才と謳われるが、その一方で「あいつは変わった奴なんだな」と周りからは一目置かれ、遠い人として認識される。その周りからの圧力が人を苦しめたりもする。映画での池坊専好は変わった人物ではあったけど、周りの圧力に屈することなく、自分の好きなやり方で生け花を極めようとする姿は勇ましくもあり、そして、変わった視点で人々を魅了していく姿は、グローバル化を謳いながらも没個性化に突き進んでいく日本に、一つの警鐘をならしていると私は感じ取った。

千利休はどうすれば救われたのかをずっと考えていた。あのまま秀吉に土下座をして、謝っていれば、命だけは助かったのかもしれない。でも、そのような行動をとっていたら、きっと現在まで「千利休」が教科書に載るまで名前は轟いていなかったと思う。命を投げうってでも意志を貫き通して、わび茶のあり方を守ろうとするその姿が、多くの弟子たちの心を揺るがし、現在も「茶道」が大切な伝統として受け継がれているのだろう。

秀吉の横暴かつ傲慢な態度は許されるべきものではないのは明白で、「猿」と口にしただけで幼い子供の首をはねる処罰のやり方は、まるで小学生の浅はかな考え事のようだと思った。よくそんなんで天下統一を果たせたものだと考えたりしたけど、世を治める偉い人間が必ずしも知的である訳でないというのは、現代の、上に立つ人たちの姿を見ていると頷けるのはよく分かる。どの時代も、上司の人間性による周りへの負の影響は、多くの人の悩みの種だったのかもしれない。

おわりに

 大学受験でちょっとばかり歴史を学んできたけど、過去の出来事を頭に詰め込んだだけでは、受験以外では何の役にも立たない。当時の人々の気持ちを考えていくことも立派な勉強になるのだと最近よく思う。過去の過ちを繰り返さないのが歴史の一番の存在意義なら、なおさら必要だと考えるけど、どうなのだろう。私だけが感じていることなのだろうか。

人の気持ちを考えることは、とても大切なこと。池坊専好は秀吉にそのことを分かって欲しかったし、希薄になりつつある現在の人間関係を良好に保つには、それは必要不可欠なことだと私は思う。

雨のちゴキ

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驚愕するほどの出来事を味わったのは今回で二度目。

ついに奴が現れた。神がかり的な俊敏性と、ダイヤのごとくキラキラと黒光りするボディを兼ね備えたゴキ様。

私は、一人暮らしを始めるときに、ある目標を立てた。それはゴキ様が私の前に現れないように、部屋の健全性を最低限は保つようにする、ということだ。一週間に一度は必ず掃除機をかけ、水周りに汚れが目立てば、すかさず市販の掃除道具を使って対処をする。これは学生時代から行ってきたことで、現在まで続けてきた。

別に潔癖性というわけではない。ある程度の小汚い部屋もそれはそれで味があると思っているし、汚れと共存していかないと、逆に体が弱ってしまうのも最近の医学でこれみよがしと謳われている(たぶん)

それなのに、今回は最悪だった。
こんなにも注意していたのに…こんなにも、警戒していたのに…

雨の日。ジメっとした嫌な暑さが、部屋を纏わりつく中、私は夜に目が覚め、そこでふと、明日の朝ご飯のお米を、炊飯器にタイマーでセットし忘れていたことに気が付いた。

寝ぼけ眼で台所へと向かう。
台所のシンク下にお米が収納されているので、腰を屈め、下の扉を開ける。
計量カップを握り、いつも通りにお米をすくう。
しかし、お米をすくったつもりだったけど、計量カップの中がカサコソカサコソと騒がしい。

よく見ると、ゴキ様だった。

「ギャー!」と、声を上げたいところだったけど、真夜中だったので、声を押し殺し、小さく呻き声を上げた。
そして、目の前が真っ白になった。
ああ、いつからだろう、いつからこのゴキ様は、このお米に集っていたのだろう。

…私はもしかすると、ゴキ様が這い回ったお米をずっとおいしそうに…いや、やめよう。理性が壊れる。

私はそのまま計量カップをお米の中に戻し、お米ごとゴミ箱に捨てた。
そして、10分間、いや、それ以上の時間、立ち尽くした。
胃の中をすべて消毒したい。そのような思いに駆られた。

しかし、ゴキ様に驚愕されられたのは、何も今回に限った話ではなく、私がまだ子供だった頃にも、顔が青ざめてしまうくらいの出来事をゴキ様はやってのけた。

確かその日も、ウトウトとしていた。ふと、歯を磨くのを忘れていたことに気づき、私は目をこすりながら洗面所へと向かった。

誰もいないのに、カリカリ、カリカリ、と音がする。
何だろう、と、電気をつけると…
ゴキ様が、歯ブラシのブラシ部分を、ガジガジとかじっていた(実話です)
私はこの時になって初めて、ゴキ様にも歯があるんだ、ということと、人類の最大の敵はゴキ様であることを知った。

ゴキ様の話はもうこれでおしまい。書いてて気分が悪くなる。

私は、これまで20年以上生きてきて、確かなことを一つだけ実感していることがある。それは、心の乱れは部屋の乱れに影響する、ということだ。

先週、先々週と、私はシステム開発に行き詰まりを感じ、そして先輩社員からの厳しいお言葉もあり、かなり凹んでいた。もうどうでもいいや、という投げやりの気持ちが日常生活にも及んでしまい、大切な部屋の掃除も大分適当になっていった。たぶん、今回、人生で一番部屋が荒れていたと思う。

でも考えて見ると、心の乱れは部屋の乱れ、言い換えれば、これすなわち、部屋の乱れは心の乱れ、になるのではなかろうか。

部屋をきれいにすると、心も清らかになって、多少は充実した人生を送ることができる。そうやって今まで過ごしてきたのに、いつの間にか、忘れてしまっていた。

人生って、難しい。分かっていても、忘れてしまうのだから。

ゴキ様はたぶん、周りの目からは気づけない、心の乱れを教えてくれる、貴重な虫だったりするのかもしれない。

しかし、そうやっていい方にゴキ様のことを持ち上げても、やはりどうしても抵抗を感じてしまうのは、それ以上の負の何かがあるんだろうな、きっと。

…しばらく外食にしよう…