心はいつも雨模様

記憶より記録

【映画】『夜は短し歩けよ乙女』の感想

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純真な心を持った黒髪の乙女と、回りくどいナカメ作戦(なるべく彼女の目にとまる作戦)を決行する腐れ大学生の先輩が、互いに面白おかしい出来事に遭遇しながらも、最終的には出逢いの御縁に結ばれる、ファンタジーでありながら甘酸っぱい恋愛要素も含まれる非常に愉快で楽しいお話が、今回の映画『夜は短し歩けよ乙女』である。

小説は何年か前に読んでいて、独特な文体に苦戦しながらも、文章から滲み出てくる京都の幻想的な町並みに魅了されながらウキウキと読み進めた。気がつけば時間を忘れ、森見ワールドに吸い込まれていたのを今でも覚えている。そこが森見作品の一つの醍醐味で、噛めば噛むほど味がでるスルメのように、読めば読むほど物語の面白さを噛み締めることができる。要するに森見さんが文章によって紡ぎ出す物語だからこそ、作品の良さを感じることができるのである。

夜は短し歩けよ乙女』は、山本周五郎賞本屋大賞2位に選ばれているので、文学的評価もかなり高く、そして作品としての知名度も高い。森見作品の中では代表的と呼べる一冊ではないだろうか。そのような小説が今回映像化されたのだから、私としては観ないわけにもいかなかった。しかし先にも述べたように、森見さんの文体だからこそ物語の良さが引き立つ部分があるので、小説のように人物の繊細な心情、そして緻密な構成は完璧には表現できない。映画ではそこに欠ける部分が見られたが、それでも物語に出てくる不思議な世界観はしっかりと表現されていたので、一、森見読者としては嬉しかった。

この作品は、幻想的な京都の風景はもちろん、登場人物が皆個性豊かなところが良い。読んでいて「阿呆だなあ」「くだらないことを考えるなあ」「驚くほど健気だなあ」と、物語に現れる全ての登場人物が愛おしくなる。最後まで目が離せないキャラを描くことができる作家は森見さんしかいない。

色とりどりのカクテルの中に浮かぶ氷のようにきらきらとした好奇心を持つ黒髪の乙女。しかし時におともだちパンチを繰り出し、破廉恥な不届き者を成敗する健気さを秘めた彼女のことを、気にならない人なんているのだろうか。

不毛な場面に何度も出くわす冴えない腐れ大学生の先輩。しかしそんなことにめげることなく、何度もその不毛な場面に邁進していく彼のことを「滑稽だなあ」と優しく見守らない人なんているのだろうか。

何を考えているのか全く読めない、不思議さに包まれた顎の大きい樋口さん。
スポンジで水を吸収するかの如くお酒を飲みまくる、気の強い羽貫さん。
幻想的な三階建電車に乗って颯爽と登場し、偽電気ブランを掌握している李白さん。
運命の人との出逢いが再び成就するまでパンツをはきかえない頑固なパンツ総番長。
貸し出しの本の期限を取り締まる図書館警察長。

全てが個性的でありながらも、その個性をそっと抱きしめたくなるような愛おしさが、この作品の登場人物にはある。

余談になるが「四畳半神話体系」に出てくる暴れん坊将軍がまさか今回の映画にも出てくるとは思わなかった。不意を突かれて笑ってしまった。

物語はうねりをあげて怒濤の局面へと向かっていく。黒髪の乙女は夜の京都に迷い込み、荒れ狂う学園祭に足を踏み入れ、ひたすら好奇心が呼ぶ方へと歩みを進めていく。乙女を思う男はその後に続きながらも涙ぐましいほどの災難の渦中に巻き込まれていく。

私たち視聴者は、それらの姿にはらはらドキドキとしながらも、どこか愛おしさのこもった眼差しで、映画の結末を見守ることになる。

桜が運んできたもの

多くの車が行き交う大通りを外れ、人気の少ない道を歩いていました。
空は雨雲に覆われていて、今にも滝のような雨が落ちてきそうな空模様でした。そんな湿っぽい心持と空間を泳いでいる中で、突然、私を誘惑するかのように、一枚の桜の花びらが鼻先を掠めていきました。風に乗ってここまで運ばれてきたのでしょう。
「そういえば、今年はまだ桜を見ていないな」と、ふと桜のことを思いました。
思い返してみると、どんなに忙しくても、何だかんだで桜を目にしてきました。
学校に入学したとき。
新学期が始まったとき。
部活が新たに始動したとき。
学校を卒業したとき。
初めて実家を離れたとき。
アルバイトをしながら人生に思い悩んでいたとき。
就職の為、知らない土地に行く途中に電車から一瞬だけ見えたとき。
そう。記憶の片隅にはいつも桜がありました。
私の鼻先を掠めるくらいの小さな桜の欠片でも、見るだけで胸に込み上げてくるものがあります。人生の節目には必ず桜が咲いたので、大切な記憶に寄り添うようにして再生されるから、そう感じるのでしょう。

気がつけば私は桜の花びらが飛んできた方向へと歩みを進めていました。
しばらく歩き、角を曲がると、歩道の上を覆い被さるように淡いピンク色を纏った桜の木が現れました。満開の時期を少し経過していたので、ぽつぽつと青葉が目立ちました。

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その後、少し歩くとたくさんの桜に覆われた公園が現れました。
私は吸い込まれるようにその公園内に足を踏み入れました。私一人しかいないと思っていましたが、耳を澄ましてみると色んな声が聞こえてきます。
老夫婦が楽しそうに桜のことを話している声。
家族連れが子供と楽しそうに遊んでいる声。
若者が花見をしながら近況を話している声。
私はその声を耳にしながら、桜を眺めていました。何年経っても桜は桜で、いつまでも変わらない美しさに不思議と安心感を感じました。
今年も、頑張ってみようか。そんな前向きな気持ちがポツポツと芽生えました。

もう少し休憩してから公園を後にしよう、そう思ったとき、一瞬だけ強い風が吹きました。この日は、にわか雨が予報されていて、天候は常に不安定でした。このような突拍子のない風も、この日に限っては特別なものではありません。空には依然として重そうな黒い雨雲が浮かんでいます。

先程の強い風により、最後まで必死に枝葉にしがみついていた桜の花びらが舞い、そして雪のように地面に積もっていた桜の花びらが躍るように舞い、辺りは白に近いピンク色の世界に包まれていきました。
私は目を瞑りました。そして風が止んだのを肌で確認してから、目を開きました。その時、私は自分の目を疑いました。あれは幻だったのでしょうか。白い世界に紛れるように、昔の自分が目の前にいるのです。幼き頃の小さな自分はこちらを見て、あどけない表情でありながらも優しさを含んだ笑顔で私に微笑みかけてきました。
「なぜ、そこにいるんだい」と私は尋ねました。
しかし私の声は届くことなく、すぐにさきほどの家族連れの少年に姿が変わってしまいました。
少年は目に砂が入ったのか、地面に屈んで目をこすっています。両親は心配そうに我が子のもとに駆け寄っていきます。
今までのは、きっと、私の思い違いでしょう。
でも、もしかしたら、桜の花びらが、過去の自分を現在に運んできたのかもしれません。
桜の変わらない美しさは、桜自身が過去を記憶しているのもありますから。
今年もまた、桜が私に元気を与えてくれました。

魔法の珈琲

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飲むと口の中に広がる苦みがたまらなく心地よい。そう感じ始めたのはいつからだろうか。

子供の頃、初めて珈琲を口にしたとき、真っ先に口から出た言葉は「まじい…」の一言だった。こんなに苦くて、香りも独特で、カフェインというよく分からない成分の入った黒い飲み物を、好き好んで欲する人が、この世に存在するのだろうか。存在するとしたら、余程の変人に違いない。そう思った。

それ以来、私の中での珈琲は、ただの不味い飲み物でしかなくなった。だから高校を卒業するまでは、珈琲なんて一切口にしなかった。たとえ砂糖やミルクが入り、飲みやすくなっていたとしても、苦手なのは変わりなかった。

周りの連中が「ブラック珈琲って、美味いよな。香りも良いし」と、わざとらしく大人びた台詞を言う中で、私は「ココアこそ人類最強の発明である」と言及し、対抗した。しかし十代後半の若者の大半は、やたらと大人になりたがる傾向にあるので、ココア至上主義を謳う少数派の私は、あっけなく敗北を喫することになる。

勉強のお供は、夏はもっぱらペットボトルの冷たいお茶。冬はバリエーション豊富で、ココアかカフェオレかコーンポタージュだった。コーンが缶の底に溜まり、うまく取り出せなかったとき、「コーンが出てコーン」と、真冬並の寒いダジャレを言い放ち、周りを凍り付かせてしまった時は、本当に消えてしまいたかった。でも、今となってはそれさえも愛おしく感じる。

そんな珈琲嫌いだった私が、自ら珈琲を口にし始めたのが、大学の4年生の卒業間近の時期だった。その頃は、卒業論文に行き詰づまり、就職活動に行き詰まり、八方塞がりの状況だった。学生生活の最後の半年間は、腹痛で寝込んで、部屋の隅っこでずっと震えていたのは、まだ記憶に新しい。

そのような心理状態だったから、自宅にいても、余計なことを考えてしまうだけだし、図書館で勉強しても、まったく頭に入らなかった。
心安らぐ場所がなかった私は、アパートの近くにあるカフェに立ち寄ることにした。気晴らしくらいにはなるだろうと思った。
お店の中に入り、「コーヒーをください」と力なく注文する。心から珈琲を飲みたいわけでもなかったのに。
店員は20代後半くらいの女性で、とても大人びていて、優しい表情をしていた。
「コーヒー、お好きなんですか?」と、その女性店員は微笑みながら尋ねてきた。
「それほど好きではないです」
女性店員はクスッと笑い、「そうですよね。コーヒーによっては、かなり癖がありますから、おいしくないコーヒーは、本当においしくないです」
「ここのコーヒーはおいしいんですか」
「それは、飲んでからのお楽しみです」
私のそっけない受け答えにも、優しく対応してくれたあの人に、今は本当に感謝したい。

久しぶりにブラックの珈琲を目の当たりにした。
白くて綺麗なマグカップからは、珈琲の独特な香りと、白い湯気が立ち昇っており、昔、私が見た珈琲とは、明らかに違った雰囲気を漂わせていた。
カップを手に持ち、一口だけ口に入れてみる。
意外にも不味いとは思えなかった。いやむしろ、珈琲の苦味が心地良いとさえ思えたくらいだった。

私は考えた。なぜ嫌いだった珈琲が飲めたのか。
人生の苦味を味わっていた時期だったから、自然と珈琲の苦味にも馴染めたのだろうか。
それとも、店内の落ち着いた雰囲気がそうさせたのだろうか。
私の味覚が大人になったから、そう感じたのだろうか。
どれも違う。
たぶん…あの人が淹れてくれたから、美味しいと感じたんだ。
それを思うと、何だか気恥ずかしくなった。
私は、先程の女性店員を見た。私の視線に気づいたのか、相手もこちらを見て、そして、微笑みを返してくれる。
おそらく、珈琲を悪いものではないと思い巡らしている私のことを、きっと彼女のことだから、感じ取っているのだろう。
でも、悪いものではないと思う理由は、私の心の中に留めておいたので、彼女には届いていない。

あの人が淹れてくれた魔法の珈琲は、私をちょっぴり大人にさせてくれた。

今日も珈琲を一口飲む。
あの時のような不思議なおいしさはないけれど、珈琲の独特の香りと苦味が、心地良さを与えてくれる。

またいつか会えるだろうか。

心に落ち着きと癒しを与えてくれる、魔法のような珈琲に。

そして、優しい笑顔で珈琲を淹れてくれた、あの人に。