心はいつも雨模様

徒然なるままに書いていきます。

漱石探究記 ~ 漱石全集第一巻『吾輩は猫である』を読んで ~

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はじめに

昭和3,4年に発行された漱石全集は全部で20冊あり、第1巻は漱石の処女作である「吾輩は猫である」(以下<猫>と呼ぶ)から始まる。約90年前に発行された本だけあって、全体に痛みが見られ、紙は茶色く変色している。さらに図書館の中でも古文書がずらりと並べられている場所で漂う古い紙の匂いがする。研究室ではあるまいし、わざわざこんな面倒なものを買い部屋に置いて何になるんだ、と周りの人は疑問を抱かずにはいられないだろう。しかし意味はある。古い本を手に取ると、まるで漱石が生きた時代にタイムスリップしたかのように、本自身の過去の重みを敏感に感じ取ることができるのだ。現代の文庫本では味わうことのできない、贅沢な気分を、私はこの歳になって初めて味わうことになった。

私は20代が終わるまでにこの漱石探究記を完成させていきたいと考えている。漱石の世界で得られるであろう、様々な知識や感性を今後生きていく上での教訓にし、本を全て読み切った暁には、私の読書生活の大きな一歩に、そして、私の人生の確かな一歩になってくれたらいいなと、そう思っている。 

どのようなストーリーなのか

<猫>はタイトルだけでも、誰しも一度は耳にしたことがあるのではなかろうか。ただ、私が学生の頃は『こころ』を授業で扱ってくれたものの、<猫>の方は授業では扱ってくれなかった。自ら読む機会もなかった為、「吾輩は猫である。名前はまだない」という有名な冒頭部分だけは記憶の片隅にあるだけで、肝心の内容に至っては、恥ずかしながら全く知らなかった。だから今回、二十代半ばで初めて<猫>を通読し、ある程度の内容を理解したことになる。

物語の大まかな流れとしては、自分のことを「吾輩」と称する名前のない猫が、くだらない人間世界の実情を猫目線で考察していくものとなる。しかし、ただ考察するばかりでなく、救いのない人間世界に、とりわけ変人とも言える人たちが物語に登場してくる。その変人たちの考察も入り交じり、物語全体が面白おかしく滑稽なものとなっている。ストーリーとしては大体そんな感じだ。

主な登場人物は下記の通りとなる。全て書くと長くなるので主要な人物だけ紹介する。

吾輩
 名前のない猫。人間より遥かに考察力が優れている。
珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)
 漱石自身をモチーフにしたキャラ。英語の先生をしている。牡蠣的生活を決め込み、岩のように頑固な人間。胃弱。
迷亭(めいてい)
 珍野家によく訪ね、屁理屈ばかり論じる自由人。変人たちの中心的存在。
水島寒月(みずしま かんげつ)
 苦沙弥の教え子。理学士。玉ばかり磨いている。
越智 東風(おち とうふう)
 寒月の友人。詩が好き。
細君
 苦沙弥の妻。気が強い。
金田 鼻子(かねだ はなこ)
 鼻が大きい女。鼻のことで苦沙弥たちの話のネタにされる。
金田 富子(かねだ とみこ)
 自意識が強い女。

<猫>は全部で11話の構成になっているが、11話全て密接な関係性があるかというと、特にそうでもない。一話ずつ、漱石が思ったこと、感じたこと、学んだこと、考えたことが、自由に書き散らされているような印象を受ける。それはまるで、猫が自由気ままに物事を考えているかのようで、猫特有の自由さを文章でうまく表現しているように私は受け取った。

<猫>は漱石の処女作である。この作品に漱石の全てが込められていると私は思う。だから、漱石についてもっとよく知りたいと思う方は、<猫>を熟読してみると良いだろう。

 魅力的だと思う場面

魅力的な場面といえば、猫の考察ばかりでなく、苦沙弥先生を取り巻く変人たちの会話を楽しめるところにあると思う。例えば鈴木という人物が苦沙弥先生の頑固な性格を指摘する時に言い放つ言葉なんかは、読んでいて「なるほどな」と感心したりもした。

 「そう頑固にして居ないでもよかろう。人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だよ。丸いものはごろごろどこへでも苦なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角が擦れて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ」

もちろん変人たちの会話以外にも、気になる文章はたくさんあった。必要であればページに付箋をし、何度でも読み返せるように工夫したが、付箋がありすぎると、逆に混乱を招く恐れもあるので、注意が必要だ。

「今の世に合う様に上等な両親が手際よく生んでくれれば、それが幸福なのさ。しかし出来損なったら世の中に合わないで我慢するか、又は世の中で合わせるまで辛抱するより外に道はなかろう。」 

「西洋の文明は積極的、進出的かもしれないが、不満足で一生を暮らす人の作った文明さ。日本の文明は、根本的に周囲の境遇は動かないものと云う一大仮定のもとに発達しているのだ。」

「人間の定義を言うと他に何にもない。只入らざることを捏造して自ら苦しんで居る者だと言えば、それで十分だ

「見ず知らずの人のために眉をひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情け深い、思いやりのある動物であるとは甚だ受け取りにくい。只世に生まれて来たぶぜいとして、時々交際の為に涙を流してみたり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。

「二六時中キョロキョロ、コソコソして墓に入るまで一刻の安心を得ないのは今の人の心だ。文明の呪詛だ。馬鹿馬鹿しい」

人間とは何か。世界とは何か。<猫>という作品は、遥か昔から問われ続けている難題に、挑戦しているようにも感じる。内容は難しいけど、文章だけで、何かしら人生にプラスになるような、意味深な言葉が多くあり、しかし、それでいてユーモアな文章も随所に見られるので、読むだけで価値のある作品であると考える。

反対の意見など

反対の意見が言えるほど<猫>を熟読したわけでも、学があるわけでもないので、一つだけ気になった個所を言及する。それは最後の11話で、女性に対して冷ややかな言葉が投げかけられていることだ。少々極論すぎるかな、と思ったりしたけど果たしてどうなのだろう。女はいつの時代だって、自分勝手で、我儘で、嫉妬深い生き物だと、声高に叫んでいるようにも感じられた。漱石の夫婦関係は、いがみ合いの連続だったのだろうか。そういうところも今後調べていきたい。しかし、男は男で変人奇人しか登場しないから、本当にどうかしていると思う。

作品を通じて何を学んだか

「猫」を読んで学んだこと、気づいたことを上げると三つある。

まず一つ目は、適当な人間ほど、そして人間として嫌な奴ほど、世の中をうまく渡り歩いている、ということ。真面目な人間が損をするのは昔からの決まり事だったのだろう。しかし、だからといって、不真面目になっていいわけではなくて、ある程度の適当さを持ちながら真面目に生きていきなさいと、この作品は読者に訴えているように思う。

それと二つ目は、健康は大事だということ。作品の最初から最後まで神経衰弱のことや胃病のことが出てきた。昨今でも自殺の一番の原因は健康問題であり、当時を思えばおそらく多くの人が(特に漱石が)不健康に悩まされていたことが窺える。自分らしく生きていくためには、健康のために生活習慣を良くしていかなければいけない。

そして最後、三つ目は、考えすぎるのはあまりよくない、ということ。この作品は考えすぎて、少々物事が複雑になっていて、読むのに骨が折れる。人間は本来、単純で、浅はかで、つまらない生き物。しかし、自意識の存在により、人間が自らの手で複雑な世界を作り出している。複雑になればなるほど、心はすり減っていく。自分で自分の首を絞めていく、みたいに。<猫>の最後は寂しさで終わる。人間は寂しさを抱える生き物であって、その寂しさと共存していくことも大切であることを、漱石は伝えたかったのだと思う。

終わりに

感想を書くのは昔から苦手で、学校の宿題や就職試験などで「論文を書きなさい」との指示を受けたら、私はたちまち熟考してしまい、筆を動かすことができなくなる。今回もこうして感想を書くのにはやはり抵抗があり、何日も何日も、時間をかけた割には内容の薄い探究記になってしまった。しかし、自身の成長の為に、困難は避けられない。今回書いているうちに分かったことは、自分の思うままに筆を動かしていったら、多少なりとも抵抗感はなくなり、スラスラと書けてしまうときがある、ということだ。そういう一瞬のインスピレーションを大事にして、この探究記を書いていくようにしていきたい。

漱石全集第一巻を読み終わり、残り19冊。これを多いと読み取るべきか、それとも、少ないと読み取るべきか、今は判然としない。でも、読み進めていくうちに、きっと「少ないな」と感じていくだろう。

漱石の一生がたった20冊で終わっていることを考えると、大して想像力のない私の人生は、一体何冊分に相当するのだろうか。たぶん1冊も満たないと思う。

ただね、せっかくこうして生きているのだから、足掻いて、足掻いて、足掻いて、1冊を2冊、2冊を3冊と、人間性という冊数を増やしていきたい。

それが今、私にできる生き方なのだと、<猫>を読んで、一つ、学んだように思う。

ボウリングのピンを気持ちよく倒す方法

一昨日会社で少人数のボウリング大会があった。ボウリングは苦手なのであまり乗り気ではなかったのだけど、無下に断るのも悪いと思ったので、しぶしぶ「行きます」と参加の意を表明した。

今回はボウリングのピンを気持ちよく倒す方法を編み出したので、ここにその手法を書き記そうと思う。とても簡単な方法なので、点数に伸び悩む人や、ボウリング自体がつまらないものだと思っている人がいたら、よかったら参考にしてみて欲しい。

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ボウリングの球はどれも重たいので、私みたいに非力だと、ピンを勢いよく倒して周りのピンを弾き飛ばすような真似ができない。もちろん、ただ力任せに投げても駄目で、適したコースに行かない限りは高得点は望めない。うまく工夫を凝らさないと、右へ左へあれよあれよと軌道が逸れてしまい、あっけなくガーターの餌食となってしまう。

どうすればボウリングで高得点が狙えるのか。そんな悩める子羊たちに救いの手を差し伸べられる最善の手法がある。それは、、、球に憎しみを込める、、ただそれだけである。私はこれを『憎しみボール』と呼んだ。憎しみのこもった『憎しみボール』はただ重いだけでなく、いやしくも負の愛に満ち溢れた、ずーんと重たい想いも込められることになるから、球は自ずと力を発揮してくれる。

私は、5,6月、特にストレスの溜まる月であったから、その鬱憤を晴らすべく、全ての憎しみを球に込めた。それは流れ星に願いを込める、純粋な少年少女の心情とは真逆で、ただただ純粋な憎しみを球に注ぎ込む真性のヒネクレ者のそれである。

さらに、投じる時は、心の中で「あんのクソ○○○!」と、教育上よろしくない言葉をわめき散らす。そうすると、憎しみの増進は、なお効果的でよろしい。しかし、あくまでも心の中、でね。つい口に出してしまうと、嫌な奴と思われてしまう可能性もあるので注意が必要だ。

するとどうだろう。不思議なことに、あれよあれよとピンがドミノ倒しのように倒れていく。スプリットの状態でも、ピン同士が示し合わせたかのように、バタバタと倒れていく。その光景を、私はこの目でしかと目撃した。嘘ぢゃないよ。

あまりにも面白くピンが倒れていくので、点数に伸び悩む先輩社員が「マルイネコの球は、ピンをはねのけるような、何か、特別な強い想いが込められているね」と私の投じる『憎しみボール』を羨ましそうに眺めていた。それが上長に対する狂おしいほどの憎しみが込められているとは、あなたには、分かるまい。

以上。ボウリングで高得点を叩き出したいのなら、嫌いな人間を想像し、球をゴロゴロ転がしてみると良い、という話でした。

ここまで読んで、具体的な技術が全く書かれていないことに、この記事をご覧になった読者様はきっと不満を抱くであろう。

しかし私は主張したい。

ボウリングという球技は、技術なんて二の次で、ストレス発散の為にあるのだ、ということを。心の中に溜まったストレスという名の厄介なピンを倒すために存在する、心の健康に良いスポーツだと私は考えている。

ただ、憎しみのあまり我を忘れて、ボウリング自体がつまらなくなっては、私の不徳の致すところであるから、自分の中にあるキラキラとした純粋な気持ちとうまく折り合いをつけながら、ボウリングを楽しんでほしいと、心から願うばかりである。

そもそも、ボウリングって、こんなに複雑なスポーツだったっけ?

驟雨日記 ~ 夏目漱石の本を受け取る ~

一日の仕事を終え、アパートに帰ってすぐにシャワーを浴び、そのまま椅子に座りホッと一息つく。「今日も何もなかったなあ」と、変化のない日々に文句を言いながらも、しばらくすると、仕事の疲れが出てきたのか、机の上でウトウトとし始める。

そんな矢先のことだった。半ば夢心地の気分でそのウトウト眠りを味わってた時に、突然、空間を引き裂くようなインターホンの音が部屋中に鳴り響いた。私は不意打ちを食らったかのごとく驚き、まどろんだ夢の世界から引きずり出され、つまらない現実に呼び戻される。いつもそうだ。いつもいつも、誰かが私の眠りを妨げる。

スズメの涙ほどの憎しみを抱えながら「よっこらせ」と椅子から立ちあがり、玄関へと向かう。するとまた「ピンポーン」と続けざまにインターホンがなった。

「ずいぶんとせっかちな訪問客だな」とウミガメの涙ほどの憎しみを抱えながら玄関の扉を開けると、この世の終わりを迎えたかのように、険しい形相をした女性配達員が私の目の前にヌッと現れた。若干ホラーに近かった。
「これに、、、サインを」と片腕をプルプルと震わせながら私宛の荷物を持ち、そして、もう片方の腕で領収書を差し出してくる。「えーと、どこにサインすればいいんですか」と暢気に質問していると、「ここ!!!」と、間髪入れずに、またしても険しい形相で私を睨んでくる。もっと落ち着けばいいのに。

受領のサインを書いて女性配達員に差し出すと、その配達員は獲物を狩るかのごとくシャッ!と領収書を受け取り、そして余計なお荷物を切り捨てるように、私に荷物を託した。予想もしなかった重さに思わず「うわ重た!」と声が出た。その間抜けな姿を見て女性配達員はフッと鼻で笑った。そして、とんずらした。

箱の中身はおおかた予想はついていたけど、漱石全集がこんなにも重量感のある代物だとは思わなかった。箱を開け中身を確認すると、分厚い古文書のような本がわんさか出てきた

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「なんでこんな写真を撮ってんだ。早く読めよ」と周りからはブーブー文句を言われそう。
ただ、今は、古い本の匂いや、多くの人の手に渡ってきた古本自身の過去を、しっかりと味わっていたい。

図書館で味わうようなことを、まさか自宅で味わうことになろうとは、本当に夢にも思わなかった。

私は一体どこに進んでいくのだろうか。